N家と猫のはなちゃんの日常

N家(父、母、息子)の三人が、自分の趣味や日常を綴ります

いつでも大好き鹿島アントラーズ

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いつでも大好き鹿島アントラーズ

 

先日は、我が家の鹿島アントラーズにかかわるエピソードを書かしていただいたが、今日はチームそのものについて、少しご紹介させていただこうかと思う。

 

・誕生秘話

鹿島アントラーズの前身は住友金属工業蹴球団(現・日本製鉄)です。

当時JFL(日本サッカーリーグ)2部にとどまっていたチームが、地元の応援もあり、なんと大胆にもプロリーグへの参加を申請したのでした。

当時のプロリーグ設立準備メンバーであった川淵三郎氏(のちのJリーグ初代チェアマン)に

「住金さんの参入の可能性はゼロなのです。99.9999%無理ですよ」とまで言われたものの、当時の担当者は「では、0.0001%の可能性はあるということですね」と返答したということです。

さらに「屋根付きの15,000人収容の専用スタジアムができるなら、考えましょう」という、ある意味無理難題を押し付けられたのですが、県の協力もあり、本当に鹿島サッカースタジアムの建設計画を推し進め、それが逆転打となって初年度からのJリーグ加盟が奇跡的に認められたのです。

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現在のカシマサッカースタジアム

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スタンドから

上の写真は、先ほど私が下の孫とともに撮ってきたスタジアムの様子です。

日韓ワールドカップの際、2階部分が増築され、現在は37,496人収容のサッカー専用スタジアムとなっています。

 

・開幕、そして熱狂

アントラーズのホームタウンは、周辺の人口が少ないことを考慮され、原則1市区町村と定められていたにもかかわらず、広域ホームタウンが唯一認められ(現在は制限がなくなっている)、鹿嶋市(旧鹿島町、大野村)、神栖市(旧神栖町、波崎町)、潮来市(旧潮来町、牛堀町)で当初構成され、2006年から鉾田市行方市も加わり鹿行地域5市となっています。

ほとんどのJリーグチームが大都市圏をホームとし、その人口は数百万にも及ぶのですが、鹿島の場合は、5市を合計しても、2018年現在で276,800人余りで、集客の面では、当初苦戦が予想されていました。

実際、当時の住友金属鹿島製鐵所の社員などは半ば強制的に10,000円で年間パスポートをしぶしぶ購入させられたと聞いています。

 

そんな中、1993年5月16日にカシマスタジアムであのリネカーを要する名古屋グランパスを迎えて開幕の日を迎えました。

本田技研のメンバーを補強し、さらにあの「神様ジーコ」が1991年から加わった我がアントラーズは、ジーコハットトリックアルシンドの2得点で5-0と勝利したのです。

開幕戦の勝利ですっかり勢いづいたアントラーズは、快進撃を続け、なんとファーストステージ優勝という快挙を成し遂げてしまったのです。

 

集客の心配などうそのようで、ホームゲームでは、立見席まで満員の17,000人に達していたと記憶しています。

我が家の熱狂ぶりは、前回書かせていただきましたが、周辺地域全体が異常な熱気に覆われたような状況で、当初前売り券は先着順で販売されましたが、販売所となったアントラーズのクラブハウスには長蛇の列ができて、収拾がつかない状態となり、急遽往復はがきによる抽選となりました。すると、今度は郵便局に住民が殺到し、往復はがきの買い占めに走り、周辺の郵便局には往復はがきがなくなるという異常な事態を招くこととなったのでした。

私も東京出張の際、往復はがきを買って帰ってきたり、地元では品切れで買うことができなくなった応援グッズを探し回っては、手あたり次第買ってきたりしていました。

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チケット売り場となったクラブハウス

チケット狂騒曲はそれでもおさまらず、期間を限った電話による応募という形式に代わりましたが、するとなんということでしょう、受付時間になると周辺の電話回線がパンク状態となり、鹿島臨海工業地帯の各企業も真っ青の不通となってしまったのです。

 

応募形式は、再び三度変更となり、応募期間を長めにとった一電話回線一件で、確かマックス一試合4枚までの自動音声受付による抽選方式となりました。

私は当時営業職であったので、その立場を悪用(?)し、自宅の電話はもちろんですが、会社の回線すべてと、サッカーに興味のない客先の電話番号も了解を得られれば、すべてお借りして、毎回100件ほど応募して、チケット確保にとち狂った記憶があります。

しかし、なかなかバランスよく当選とはいかずに、当選ゼロの試合もあれば、チケット20枚当選なんて試合もあり、いろいろな方と交換しては、家族のチケットを都合したものでした。

 

現在は、取り締まりが厳しくすっかり見かけることもなくなったダフ屋も横行し、スタジアム周辺には一目でそれとわかるお兄さんたちが、決して売るとは言わずに、

「チケット余ったら買うよ」と通る人、皆に声をかけていました。

ちなみに、一番人気の アントラーズvs読売ヴェルディー戦は、数千円のチケットが一席30万円の高値を付けたといううわさも、まことしやかに流れたものでした。

 

このプラチナチケット問題も、2002年の日韓ワールドカップの際、スタジアムが4万人弱の収容と増築されたことで、めでたく解消されたのです。

 

アントラーズの話を書いていると、25年前を思い出し、筆が止まらなくなってしまいます。

我が家の投稿締め切り時間も迫ってきてしまいました。

今日はこの辺で、タイムアップの笛としたいと思います。

 

話の続きは、近いうちに。

長々とお付き合いいただき、有難うございました。

父でした。