私の思い出の歌④ さだまさし
私の思い出の歌④ さだまさし
私が若いころ、結婚式の司会と言えばプロの司会者を頼んだりすることは、とてもまれで、友人に依頼することが普通だった。
当時(現在も?)かなりのお調子者で、いつも目立つことの多かった私は、何ゆえか、いやむしろ必然的(!)に友人の結婚式の司会を頼まれることがかなり多かった。
数えてはいないので正確なところは分からないが、10件近くに及んだと記憶している。
俺もゆっくり会食したり、ちょこっとスピーチして、あとはお酒飲んでればいいなんて結婚式のほうが楽なのにな~ なんて言ったりしていたが、確かに料理もろくに食べることもできず、走り回って余興の確認をしたりと、式のあいだ落ち着く時間もないし、事前に結婚までのエピソードを確認したり、祝辞の順番やら、式の進行全般の打ち合わせをしたりと超忙しく、ある意味面倒な依頼でもあったが、実のところ決して嫌いな役回りではなかった。
前置きが長くなってしまったが、司会をするときに私には一つの楽しみがあった。それが司会を引き受けることを拒まない理由でもあったかもしれない。
自分で自分を紹介し、ギターを抱えて一曲歌ってしまうという、司会者ならではの荒技である。
当時の結婚式は、祝辞やスピーチ、そしていくつかの余興は決まっているのだが、宴が進み皆さん酔いが回ってくると、カラオケ大会の様相を呈することもしばしばで、私も私もと手をあげる人が増えて、結局歌いたくても歌えないなんて人も出てきたりしたものでした。
しかし私の場合、なんといっても式を進行する司会者です。
そう、必ず歌える!♪
お前を嫁にもらう前に 言っておきたいことがある
かなり厳しい話もするが 俺の本音を聴いておけ
俺より先に寝てはいけない
俺より後に起きてもいけない
めしは上手く作れ いつもきれいでいろ
できる範囲で構わないから
忘れてくれるな 仕事も出来ない男に
家庭を守れるはずなどないってことを
お前にはお前にしか できないこともあるから
それ以外は口出しせずに 黙って俺についてこい
そうです、さだまさしさんの作詞作曲
「関白宣言」
をギターを抱えて登場し、歌ってしまうのです。
そしてあろうことか、長~いこの歌を全曲歌い切り、
さらに、歌の最後
忘れてくれるな 俺の愛する女は
愛する女は 生涯お前ただ一人
そのお前を、なんと、なんと
新婦の名前に変えて歌いきるという
すさまじくダサく、信じられな~い!演出を
毎回毎回、やり続けていたのです。
今ここに私は、私が司会を務めてしまった10組近くのカップルに心からお詫びしたい。
自分の目立ちたい欲求を満たすため、下手なギターまで持ち込み、長々と歌い、臭い演出で新婦の名を大声で叫び、どや顔で舞台をおり、素知らぬ顔で以降も司会を続け、
「拙い司会進行でありましたが、皆様のお力添えでどうにか大役を果たすことができました。本日は、誠にありがとうございました」
なんて、結びの挨拶までしてしまったことを、本当にごめんなさい!
いまさら遅いが。
さだまさしさんの話は、何にも出てきませんでしたが、最後に少しだけ。
長崎県出身のさださんは、1972年に高校時代からの友人である吉田正美さんと「グレープ」を結成し、デビューします。そして1974年あの名曲「精霊流し」で一躍有名となり、「無縁坂」「縁切寺」と少し重い曲を発表していきますが、グレープは暗いというイメージと自分たちの目指す音楽との齟齬に悩み(と、言われています)、1976年に解散してしまいます。(私の好きな「朝刊」なんてほのぼのとした曲もあるのですが)
バイオリンを弾いての演奏は、とても優雅で刺激的でした。
以降、体調を崩したりもしますがソロ活動を続け、その後の活躍は皆さんもご存じのとおりです。
噺家と言われるほどにおもしろいコンサートでの語り
小説家、童話作家
映画監督
その才能は多岐にわたり、現在も活発なコンサート活動を中心に活躍されています。
北の国からのテーマ曲や 山口百恵さんの歌った秋桜 そしてフレディもしくは三教街
いろいろなメロディーが頭の中をよぎります。
やっぱり歌は、いいものです。
これから、聴いてみることにしますね、一人で。
父でした。